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パンツを脱いだサル―ヒトは、どうして生きていくのか
シリウスの都 飛鳥―日本古代王権の経済人類学的研究
脳梗塞、糖尿病を救うミミズの酵素―秘密は血管を浄化するミミズの酵素にあった!
シルクロードの経済人類学―日本とキルギスを繋ぐ文化の謎
純個人的小泉純一郎論
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カスタマーレビュー
おすすめ度:
人類の「欠陥」について論じた名著
(2007-08-04)
20世紀は「大量虐殺の世紀」でした。
二度にわたる世界大戦と、マルクス主義の名のもとに行なわれた大粛清・人民弾圧という出来事は、理性に対する信頼を失わせるに足るものでした。
そもそも人類は、ほんとうに「知恵のあるサル」なのだろうか?
本書は、このような難問に真正面から挑んでいます。
結論から言いますと、人類はかなり深刻な問題を抱えているという事になります。
ただし、それは自覚して適切に対処すれば、かなりのていど解決するのだとも論じていますので、絶望する必要はないわけです。
私が本書(の以前の版)をはじめて読んでから15年ほど経ちますが、現在では私は「過剰-蕩尽」というコンセプトだけでは、人間の行動のすべてを説明することは出来ないのではないかと考えています。
とは言うものの、本書が重要な指摘を多々行なっているという事には変わりはありません。
我々が犬や猫の生態を観察するのと同じような感覚で、人類(自分じしん)を観察しなければ、人類は幸せを掴むことが出来ないのだということを私に教えてくれた本書を、ぜひとも多くの人に読んでいただきたいと思います。
今なお新鮮
(2005-10-08)
二十年ぶりに読んだ。その視点は今なお新鮮である。
著者は主にポランニー兄弟に依拠して、人間の活動を「パンツ」と名付ける。パンツとは言い換えれば文化の総称である。そして人間は「本能の壊れた動物」(岸田秀)であり、本能に基づいて行動するかわりに、快感原則に基づき行動する。そしてパンツを脱ぐ、すなわち文化という共同幻想を蕩尽することが生の目的だ、と言い換えた場合、それはほとんど吉本隆明から岸田秀に受け継がれた「唯幻論」に酷似する。
しかし、原著を読んだ時には気付かなかったのは、著者にせよ岸田にせよ、日本の中で数少ない魅力的かつ独創的な理論を打ち立てたひとびとは、みな政治的には保守であり、マルクスに対する反感を隠さないことだ。理論が革新的であっても政治的に左派であるとは限らないというのが面白いと思う。もちろん、最近は左派リベラリストの方が教条的である傾向があるが。
新版になって付け加わった部分としては、著者の脳梗塞体験についてのリハビリの模様が述懐してあるところがある。この「身体の声を聴く」というのは、最近流行の鷲田清一や内田樹の身体論とも通じていて興味深い。また、ビートルズやデリダを「あれは政治である」と断言しているところも注目される。イイタイコトハヨクワカル・・
結論だが、まだこの本に触れたことがない方は是非一読して頂きたい。子供から大人まで十分得るところがある本である。
栗本先生の経済人類学 過剰・蕩尽論
(2005-08-09)
私を知の世界に誘ったきっかけは本書の初版である。大変うれしい事に20年の歳月を経て増補版として出版に至った。現代の古典として広く読者に読まれることを強く期待したい。
「パンツをはいた」という比喩は近親相姦、カニバリズムなどを禁止するヒトという生物固有の法律や憲法など明文化文書化せずとも、暗黙的に認められている規範のことである。現代社会に加速している過剰な金もうけと消費の行為の原型を、栗本先生はマルセル・モースのポトラッチ(2つの部族が互いに大事にしている富を破壊する儀式)に見出し、バタイユを引用しヒトの”過剰過剰・蕩尽”理論として経済人類学を展開した。民俗学でいうところのハレとケの聖と俗が近代社会では村の風習から個人の消費行動へ変遷し、パンツをはいて規範を守る日常性とパンツをぬいで規範を破る非日常性を現代社会にもみいだす。
80年代を代表する、よみがえる一冊。
(2005-04-29)
80年代著者を時代の寵児とした81年発刊の、著者の実質上の主著の復刊。
おすすめ度:
人類の「欠陥」について論じた名著
20世紀は「大量虐殺の世紀」でした。
二度にわたる世界大戦と、マルクス主義の名のもとに行なわれた大粛清・人民弾圧という出来事は、理性に対する信頼を失わせるに足るものでした。
そもそも人類は、ほんとうに「知恵のあるサル」なのだろうか?
本書は、このような難問に真正面から挑んでいます。
結論から言いますと、人類はかなり深刻な問題を抱えているという事になります。
ただし、それは自覚して適切に対処すれば、かなりのていど解決するのだとも論じていますので、絶望する必要はないわけです。
私が本書(の以前の版)をはじめて読んでから15年ほど経ちますが、現在では私は「過剰-蕩尽」というコンセプトだけでは、人間の行動のすべてを説明することは出来ないのではないかと考えています。
とは言うものの、本書が重要な指摘を多々行なっているという事には変わりはありません。
我々が犬や猫の生態を観察するのと同じような感覚で、人類(自分じしん)を観察しなければ、人類は幸せを掴むことが出来ないのだということを私に教えてくれた本書を、ぜひとも多くの人に読んでいただきたいと思います。
今なお新鮮
二十年ぶりに読んだ。その視点は今なお新鮮である。
著者は主にポランニー兄弟に依拠して、人間の活動を「パンツ」と名付ける。パンツとは言い換えれば文化の総称である。そして人間は「本能の壊れた動物」(岸田秀)であり、本能に基づいて行動するかわりに、快感原則に基づき行動する。そしてパンツを脱ぐ、すなわち文化という共同幻想を蕩尽することが生の目的だ、と言い換えた場合、それはほとんど吉本隆明から岸田秀に受け継がれた「唯幻論」に酷似する。
しかし、原著を読んだ時には気付かなかったのは、著者にせよ岸田にせよ、日本の中で数少ない魅力的かつ独創的な理論を打ち立てたひとびとは、みな政治的には保守であり、マルクスに対する反感を隠さないことだ。理論が革新的であっても政治的に左派であるとは限らないというのが面白いと思う。もちろん、最近は左派リベラリストの方が教条的である傾向があるが。
新版になって付け加わった部分としては、著者の脳梗塞体験についてのリハビリの模様が述懐してあるところがある。この「身体の声を聴く」というのは、最近流行の鷲田清一や内田樹の身体論とも通じていて興味深い。また、ビートルズやデリダを「あれは政治である」と断言しているところも注目される。イイタイコトハヨクワカル・・
結論だが、まだこの本に触れたことがない方は是非一読して頂きたい。子供から大人まで十分得るところがある本である。
栗本先生の経済人類学 過剰・蕩尽論
私を知の世界に誘ったきっかけは本書の初版である。大変うれしい事に20年の歳月を経て増補版として出版に至った。現代の古典として広く読者に読まれることを強く期待したい。
「パンツをはいた」という比喩は近親相姦、カニバリズムなどを禁止するヒトという生物固有の法律や憲法など明文化文書化せずとも、暗黙的に認められている規範のことである。現代社会に加速している過剰な金もうけと消費の行為の原型を、栗本先生はマルセル・モースのポトラッチ(2つの部族が互いに大事にしている富を破壊する儀式)に見出し、バタイユを引用しヒトの”過剰過剰・蕩尽”理論として経済人類学を展開した。民俗学でいうところのハレとケの聖と俗が近代社会では村の風習から個人の消費行動へ変遷し、パンツをはいて規範を守る日常性とパンツをぬいで規範を破る非日常性を現代社会にもみいだす。
80年代を代表する、よみがえる一冊。
80年代著者を時代の寵児とした81年発刊の、著者の実質上の主著の復刊。
人間は生存に必要以上のものを過剰に生産し過剰に消費(破壊)することに快感を覚える生物である、というバタイユの過剰‐蕩尽説を、人間の性行動に於けるパンツの履き脱ぎにおける興奮に例えて、金銭、性行動、法律、道徳、神経症それぞれを「パンツ」という表現に置き換えてヒトの行動を説明する、生物としてのヒトの行動学。
最終章で人間にもともとそなわる「内知」へ依拠することというマイケル・ポランニーの「層の理論」が語られるが、今回復刊に際して付け加わった部分は、内容においては特になく、この最終章に自身が脳梗塞時に直面した「身体に語りかけること」そして「自然と対話すること」という整体的、東洋的ともいえる視点が二篇を以て付け加わり、序章に、著者を世に出したこの書に関わった二人の編集者への追討が語られる。

